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本村大輔
私が五歳くらいの頃のことです。家で画鋲を使って工作をして遊んだ後、私は何かを思いついて外に遊びに行ってしまいました。そして家に帰ってきたところ、母親に真剣に叱られました。私の工作の片付けが不十分で、畳の上に出しっぱなしだった画鋲を妹が踏んでしまい、怪我をしてしまったのです。「どれだけ痛かったかわかるか? 自分が同じように踏んだらどんな気持ちになるか?」と大変な剣幕で叱られ、泣いている妹と、母親の言葉に、ただ「ごめんなさい」としか言えませんでした。
私には、申し訳ないという思いと、今後は気をつけよう、そして自分が痛みを感じるように、他の人が感じる痛みというものを想像する思いが与えられました。妹も私も、母にとって大切な子どもですから、失敗をした私にも本気で向き合ってくれたのだと思います。
他者の痛みに共感するということを考える時、この経験を思い出すことがあります。
聖書は、神様が親のように私たちを大切に思っていること、また私たちの痛みを誰よりも知っていてくださることを伝えています。
主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
ルカによる福音書7章13節
イエス様がある母親に出会います。夫に先立たれていた彼女は、今、その一人息子をも失い、棺を前に深い悲しみの中にありました。イエス様はこの母親の痛みを自分の痛みのように感じて、はらわたが痛むほどに、激しく心を動かされ、この息子を生き返らせるというしるしをおこなわれました。
人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
ルカによる福音書7章16節
真の神様であるイエス様が、人として世に来られたのは、神様の愛を私たちに示すため、私たちをいつも心にかけていてくださる神様の存在を私たちに伝えるためだったのです。
私が、自分の生き方について悩んでいた時に、温かいコーヒーを隣で一緒に飲んでくれた、一緒に時間を過ごしてくれた、親や友人の心配そうな眼差しを思い出します。
「大丈夫だ」「みんながんばっているんだから、お前もがんばれ」というような言葉よりも(それが、そう言ってくれる人からの精一杯の励ましだということはわかりますが)、じっと耳を傾けて、悩む思いを受け止めて、時に必要な示唆を与えて、私を信じて見守ってくれた人の思いは、いつまでも私を支え続けるものになっています。そして、その時も一緒に寄り添ってくださっていた神様の温かさを後になって知りました。
あなたのことを誰よりも、本気で想ってくださる方がいる。あなたを心にかけて、痛みを知っていてくださる方がいる。それが愛そのもののお方、神様であるということを、私たちは聖書の言葉から知ることができます。
私たちも、この愛を本気で受け止めることができたなら。
この真実な愛の内にすべての人が生きられますように祈ります。
(救世軍士官〔伝道者〕)
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