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最近聞いた講演の中で、「『安らか』には三つの側面がある。それは、体の安全、心の安心、魂の平安である」とありました。体が健康でない時、心配事がある時、生きていることの意味を感じることができない時、確かに不安になるでしょう。
「三つの側面」とは、三つの種類の「安らかさ」があるというのではなく、これらの側面が、お互いに影響し合って、「安らかさ」を生み出している、あるいは、「安らかさ」を損なっているということなのでしょう。体が健康でない時、心が不安になるでしょう。病気で、今までできていたことができなくなった時、生きていることの意味がなくなったかのように感じるかもしれません。このように三つの側面を総合して、「安らかさ」を経験できるのです。しかし、病気であっても、「安らか」である人もいますし、「何もできなくても」魂の平安を得ている人もいます。
クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いする日です。聖書は、キリストを、その誕生の時に「平和の君」と、呼んでいます。しかし、そのキリストは、人々からののしられ、最後には、傷つけられ、十字架につけられます。人の目には、決して、平和な生涯を送ったとは思えません。「平和」「平安」に、特別な意味があるのでしょうか?
キリストは、ご自分が十字架につけられる直前、弟子たちにこう言います。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネによる福音書14章27節)あたかも、病の中にあっても、心配事があっても、得ることのできる魂の平安について語っているようです。
人間は、物が豊かにあれば、安心できると思います。体が元気であれば、安全だと思います。しかし、物は、いつでもなくなってしまう可能性をもっています。健康も、いつ取り去られるかわかりませんし、少なくとも、年を重ねれば、若い時には当然のように思えたことができなくなります。そして、必ず死ぬ時が来ます。そのような中で、本当に「希望」をもって生きることができるのでしょうか。
実にキリストは、私たちに生きる希望を与えるために、本当の魂の平安を与えるために、人間の姿をとって、この地上においでになったのです。聖書は、 「(イエス・キリストの父なる)神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネによる福音書3章16節)と書いています。人は、本当に自分を愛し、心に留め、大事に思ってくれる人がいることを知った時、生きることの意味を理解し、生きることに希望をもつことができます。
愛していること、大事に思っていることのしるしが、自分の一番大切なものを与えることの中に示されます。神は、ご自分の子を与えるほどに、世を、すなわち私たち一人ひとりを愛されたことが、クリスマスに示されます。しかも、その神の子キリストが、私たち人間の経験するあらゆる経験を共にされたことの中に、その愛が更に示されます。
人は、自分と同じ経験、特に苦しい経験をした人に出会うと、それを共有し、共感し合うことができます。苦しみの中にある時、一番励まされるのは、同じ苦しみや悲しみを共有してくれる人がいることではないでしょうか。その時、不思議と、魂の平安を経験します。
キリストは、まさに私たちの悲しみや苦しみを共有してくださるのです。ですから、キリストの誕生は、父なる神が私たちを愛してくださっていることのしるしであり、キリストの生涯は、神がいつも私たちと一緒にいてくださることのしるしです。
究極は、三十年余の生涯の最後に、キリストが、私たちの弱さ(罪)を担って十字架で死なれたことの中に、神がキリストを世に遣わされたことの意味と、神が私たちを心に留めておられることのしるしを見ることができるということです。その時、物の豊かさや健康であることが与えることのできないーー別な表現をすれば、貧しさの中で、病の中で、なお魂の平安を得ることのできるーー希望をもつことができるのです。
このクリスマス、読者の皆さんが、本当の「安らかさ」を経験する「希望」をもって、人生を歩み始めていただきたいと心から願います。キリストが皆さんの心に誕生する時、それが実現するのです。
(救世軍士官〔伝道者〕・司令官)
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