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ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮さえぎられていて、イエスだとは分からなかった。
…… 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱となえ、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
( ルカによる福音書24章13〜32節 抜粋)
イースターの日曜日、なんと素晴らしいお祝いの時でしょう! 神は、御子イエス・キリストをよみがえらせることによって、死に打ち勝たれました。そして、わたしたちを罪から解放してくださいました。さらに、イエスを主として、救い主として受け入れた者すべてに、永遠なる将来を確立してくださいました。
わたしたちの人生は、不確実さと、危険と、恐れとに満ちています。しかし、イエスが贖ってくださった命は衰えることも、消え去ることもないとイースターは、教えているのです。
復活のイエスの栄光を喜ぶ時、わたしたちの心は神をほめたたえる思いに満ち溢れます。世界の救いのための神の永遠の目的と計画について、新しい洞察と理解を得ることによって、心から喜んで賛美するのです。イエスが死からよみがえられたのですから、神を信頼し、神に希望を置くならば、わたしたちも、死からよみがえることができるのです。神が独り子をこの世に送られたのは、この世を裁くためではありませんでした。
イエスの弟子たちが、イエスの十字架の死という恐ろしい出来事に直面して抱いた驚き、失望、恐れ、落胆は、十分理解できます。
彼らは、全く途方にくれ、ショックを受け、どうすればよいかわからなくなっていました。イエスは弟子たちに、何度となく、ご自分が死ぬことと、三日目によみがえることを話していたにもかかわらず、なぜ弟子たちは、一人もイースターの朝の出来事を理解することができなかったのでしょうか? 暗闇と不正の力が勝っていたのでしょうか? 今日、そのように考える人たちが存在します。
苦しみ、絶望、不正、貪欲、暴力が世に満ちており、経済的にも不安定な現代、クリスチャンの中にも、気落ちしている人がいるかもしれません。あるいは、何らかの理由で、幻滅している人も。エマオへ向かう弟子たちも、そんな気持ちを言葉にしています。
「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」
よみがえられたイエスが弟子たちの前に現れた時、彼らは、それがイエスだと気がつきませんでした。おそらく彼らの悲しみと失望が、明確なことさえ見えなくしていたのでしょう。
今日、わたしたちも、生活の中にイエスがおられるのにそれに気づかないでいることが往おうおう々にしてあります。クリスチャンは、いつでも、復活の力とその喜びを生き方の中に反映させているでしょうか? 正直に自分自身を見つめるならば、いつでもそうであるとは言えない、と認めるしかありません。しかし、いつまでもそのままであるべきではないですし、その必要もないのです。
わたしたちの霊的な目が開かれ、神の永遠の目的をより深く理解するようになるならば、信仰を通して、暗闇と失望に打ち勝つ勝利の経験をするようになります。そして、日毎にわたしたちの人生において、キリストの復活の力を知ることができるのです。ハレルヤ!
わたしの祈りは、復活の主の事実を祝うこの時、わたしたちのよく知る次の歌の言葉が、皆さんの心に響き渡ることです。
(万国総督)
いざひとよ ほめまつれ
よみがえりし 勝利の主
見よ墓には 何もなく
ただ衣ころもの 残るのみ(おりかえし)
いざひとよ ほめまつれ
よみがえりし 勝利の主イエスはげに 死に勝ちて
はらいませり くろきやみ
陰府の勝利 今いずこ
死はどく針 もがれたりいのちの主 さかえの主
たたえうたわん いざたちて
主にしたごう われらにも
主のごとくに 勝たしめよ
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