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9月22日は、日本で救世軍の働きが開始されて125周年の記念日です。日本人初の救世軍士官(伝道者)山室軍平の文章を一部編集し、掲載します。
キリストを信じて最もありがたいことは、いつ何時この世を去っても、安心して行くべき目当てがあることである。人が神様に逆らい、罪咎を重ねる間は、この世で心配、苦労と不幸せの中に日を過ごすばかりか、死後には、あの世で限りない刑罰を受ける。しかし、人が罪を悔い、心を改めてキリストの救いを受ける時には、もはやいつ死んでもきっと天国に入る目当てができる。これは、クリスチャンがいただく特別な恵みである、と言わねばならない。
天の神様を拝まず、またキリストの救いを受けない人には、死んで行く先がわからない。かえってこの世での罪咎の報いを恐れて、震えおののくばかりである。
フランスのある女優は、死ぬ間際に各種の宝石をいじりながら、「私はこんなにもあっという間にこれらのものと別れなければならないのか」と嘆いたという。トマス・ペインというキリスト教の反対家は、息を引き取る前に、「ああ、私は真っ暗がりに飛び込まなければならない。どんなに不可解な運命だろう」と言って悲しんだ。日本でも、一休和尚が臨終にその枕元に取り巻く弟子たちに向かって「死にともない(死にたくない)、死にともない」と言って意外に思われたとか。または、俳句で名高い一茶が、その子を亡くして諦め切れず、「露の世は露の世ながらさりながら」と詠んだ、というような話はずいぶん多く伝えられている。それゆえ、わたしたちは、キリストを信じて、その救いを受け、いつ死んでもさしつかえない支度が整っていなくてはならない。
ルターは、臨終の際に、「我が霊魂をあなたの御手に任せます。あなたは私を贖ってくださいました。ああ、真理の主なる神様よ」と言って安心してこの世を去った。(中略)ジョン・バニヤンは、そばにいる人々に向かい、「私のために嘆いてはならない。自分たちのために嘆きなさい。私は罪深い者だが、疑いもなくキリストに救われて、天の父上(神)のもとに行くであろう。そこで間もなく、諸君と今一度めぐり会い、新しい歌を歌って神様を賛美することを望む」と言って、長い暇を告げたのである。(中略)ジョン・ウェスレーは、「最も善よ いことは、神が私たちと共におられることである」と言い、安らかにこの世を去った。(中略)救世軍の創立者、大将ウイリアム・ブースがこの世で最後に述べた言葉は、 「あなたが、もし、ただ信じるなら、神の約束は確実である」であり、これは聖書の教えに対する、篤き信仰心を言い表したものである。
京都に同志社という学校を興した新島襄氏は、大磯の旅館にて幾人かの弟子に取り巻かれながら、まさに死ぬ寸前に新約聖書エフェソの信徒への手紙三章を読ませ、最後の言葉(20節)「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に」の箇所にくると、「そこだ、その力ある神様を頼りに、我が亡き後のことを善きに計らわれたい」と言い残して、この世を去った。
昔の人の歌に「かかるとき、さこそ命の惜しからめ、かねてなき身と思ひしらずば」とあり、死の準備のできていない人は、まさかの時にあわてるものである。けれども、キリストに救われて、死んで行く先の定まっている人には安心がある。あわてる必要もない。ゆえに、いつも、生活のちょっとしたことにも心を驚かすような恐れがない。
あなたは、死んでから行く先についての用意を整えているか? 人の命は明日をも計れないものである。ことわざにも「老少不定」というではないか。聖書には「自分の神と出会う備えをせよ」(アモス書4章12節)とある。今という今のうちに、すみやかに罪と咎とから救われ、いつ死ぬことになっても、恐れず、惑わず、神様の前に出られる用意を整えることが何より大切である。
(『十字架の教』大正5年12月発行 より)
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