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今、NHKテレビで、新島八重を主人公にした大河ドラマが放映されています。
八重の夫新島襄は、京都にある同志社大学の創設者として知られていますが、彼は手紙の中で、八重をこのように評しています。
「彼女は決して美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人(ハンサム・ウーマン)だということです。私にはそれで充分です。」
襄は、八重のおこない、心のありようを愛し、生涯尊敬し合い、いたわり合いました。私たちはどうでしょう。人を見る時、また、自分自身を振り返る時、何を基準にしているでしょうか。
1 神の選び
旧約聖書にダビデという人物が出てきます。彼はイスラエルの二代目の王となった人物ですが、ダビデが王として神から選ばれた時のことが、聖書に詳しく記されています。
その時、神は
「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは……人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16章7節)
と言われました。人間の選びの基準はおもに外見で、目に見える容姿や格好、学歴、地位、財産などが重要なものとなっています。それに対して、神の選びの基準は中身であって、目に見えない人間の本質―心が重要なのです。
イスラエルの最初の王サウルは、だれが見てもすばらしい風格があり、国民からの支持率も高かった人物でした。しかし、神から与えられたすばらしい賜物を信仰的に生かすことができませんでした。その心に濁りが芽生え、高慢な生き方をして、王座から退けられたのです。
2 神の選びの基準
聖書の少し後の個所に、ダビデの「目は美しく…」と書かれています。私たちの心の動機、心の目を主は見ておられます。心が暗ければ全身が暗黒となります。
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。」(マタイによる福音書6章22、23節)
私たちの目は心の窓です。
ダビデの父エッサイの七人の息子たちは、背が高く、軍服を着た姿も凛々しく、人の目には王となるにふさわしく見えました。しかし、神は、その誰をも次の王として選ばれませんでした。そして、父が対象外にした八番目の末っ子ダビデを選ばれたのです。
ダビデはまだ戦場に行く年齢に達しておらず、父の羊の番をしていました。黙々と羊の番をし、ある時は羊を守るため猛獣と闘うという日々を送っていま
した。街の喧騒から離れた野にあって、彼の心の目は、ただ神に注がれていたのでしょう。それが、彼の美しい目に現れていたのです。
3 神の祝福
ダビデが王として選ばれると、
「主の霊が激しくダビデに降るようになった」(サムエル記上16章13節)
と聖書に書かれています。これは、ダビデの心がきよめられ、王にふさわしい力が与えられたことを意味しています。この力は、地位や名誉、あらゆる誘に勝つために必要でした。
イエス・キリストは
「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイによる福音書5章8節)
と言われました。神は私たちの内面を見ておられます。その神の前に、「心の清い生き方」をさせていただき、神に祝福された歩みができるよう、祈るものです。
(救世軍士官〔伝道者〕)
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