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ここ日本から地球の反対側にある、フィジーの国で学んだことの中の一つに、「満足」があります。
フィジーは、 「フレンドリーな島々」と言われ、どの島の人々も笑顔を欠かさず、だれにでも、たとえ見知らぬ人にでも助けを与えようとします。ところが、そんなフィジーの人々は、ほとんど物を持っていない生活をしているのです。
2006年に起きた最後のクーデター以来、多くの人々は家賃を払う余裕がないため、不法状態での住まいで暮らしています。仕事のない人も多く、あったとしてもとても低い賃金で働いているのです。農業に従事している人であっても自給自足が精一杯の状態です。
このように非常につましい生活をしているにもかかわらず、人々は自分の持ち物にとても大らかです。フィジーの人々は、日曜日に教会に行っている人が多く、ほとんど現金を持っていないような生活の中で、神様にできる限りのものを献げます。お金だけでなく、野菜や果物を献げることもあります。教会で食事を共にする際には、それらが大いに用いられ、皆お腹一杯食べることができます。
フィジーの人々は、自分たちの状況を嘆くことはありません。人生を実に楽しんでいるのです。いつでも面白いことを見いだす人々です。私たちは、笑い声を耳にしないことはありません。そして、常に笑顔をたたえています。たとえ何も持っていなくても、人々は満足しているのです。
フィジーの人々は、私に使徒パウロの書いた言葉を思い出させました。コリントの人人に宛てた手紙で、パウロはマケドニアのクリスチャンについてこのように書いています。
「…その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった…。」( コリントの信徒への手紙二 8章2節)
この表現にあるように、マケドニアのクリスチャンは、単に貧しいのではなく、極度に貧しい中にありました。そして、貧しいだけでなく、先ほどの言葉の前には、「彼らは、苦しみによる激しい試練を受けていた…」とあります。その苦しみが何だったのかをパウロは記していませんが、マケドニアの人々が、他の人々に施すような状況ではないことは容易に想像できます。それどころか、他の人からの助けが必要だったのです。少なくとも、施すことができない言い訳もできました。にもかかわらず、彼らは、与えたのでした。それも、惜しまず、喜んで与えたのです。
フィジーで出会った救世軍の人々も彼らのようでした。自分自身が助けを必要としている中にもかかわらず、何も与えるものがない、と言い訳もせず、彼らは与えたのです。
2016年2月、フィジーは、カテゴリー5の規模の強大なサイクロンに直撃されました。私は、かつてないほどの被害を受けた地域の復旧を支援するためにフィジーに一カ月滞在しました。本当にひどい状況でした。
ところが、それから数カ月後のことです。救世軍で毎年おこなっている「克己週間募金」に、フィジーの救世軍の人々は、惜しまず、しかも、いつも以上に献げたとの報告を受けました。
聖書が教えていることは、私たちが、私たちの置かれている状況に満足できること、そして、どんな中にあっても寛大でいられる、ということです。私は、そのように生きるための「鍵」を次の言葉に見いだします。
「彼らはまず主に…自分自身を献げたので…」(コリントの信徒への手紙二8章5節)
この「鍵」は、この世界のすべてに通じる鍵です。満足する生き方への鍵、喜びへの鍵なのです。
聖書の示す鍵、それは、まず私たち自身のすべてを神様に献げること、です。
あなたも、どんな中にあっても満ち満ちた喜びに生きることができますよう、お祈りいたします。
(救世軍士官〔伝道者〕)
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