2024年の予定
- イベント
いつくしみ深き
友なるイエスは
罪とが憂いを
とり去りたもう
こころの嘆きを
包まず述べて
などかは下さぬ
負える重荷を
(『讃美歌』312番1節)
私の勤める救世軍清瀬病院の一室に、賛美歌が流れ出しました。お見舞いに来られたご家族の方とチャプレン、そして、酸素のパイプがつけられ、ベッドに横になっておられるKさんの三人の歌声です。ご家族の方が、静かにアルトのパートを歌われます。
その後、
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。……命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(詩編23編)
と聖書を読み、チャプレンが祈ると、Kさんは「アーメン」と搾り出すようにその祈りに呼応されました。
その後、同室の方々に、 「うるさくしてごめんなさい」と、挨拶にうかがったところ、お隣りのベッドの方が目に涙を浮かべておられました。今歌われた清らかな賛美歌のメロディーに心打たれたのでしょうか、涙でご本人のお気持ちを伝えてくださいました。
病院のスタッフが、会話が難しくなっている方の聴覚を頼りに、ご家族が持ってこられた音楽をCDで流していた時の出来事でした。そこには、生活が潤されるように、とのスタッフの願いが込められていました。
最近、「終活」という言葉を目にすることが多くなりました。ある新聞が「終活をしていますか?」というタイトルで特集*を組んでいました。千人ほどからアンケートをとり、先の問いに対し「いいえ」と答えた方が六割強。「はい」と答えた方は三割強でした。
「いいえ」と答えた方の理由として、今は若いので考えられない、面倒くさい、「終活」という言葉が好きでない、等が挙げられ、六割の方が「そのうちに考える」と答えておられました。一方、「はい」の理由として、残された人が困らないように、自分の最期を自分で決めたい、相続や財産の処分、また葬儀などのことを自分で決めておきたい、等々が挙げられていました。
コメントには、「終活」という言葉は好きでなくとも、生きるための活動ととらえた方が多くおられ、また、両親の終活に取り組んだ結果、自分の人生を見つめ直す機会になったという声がありました。
冒頭のKさんは、桜の花が咲き始めた四月の初旬に、天国に移されました。Kさんは、この世に生まれてきたことは、貴い神様のご配慮であると同時に、死ぬことも貴い神様のご配慮である、とご自分の状況を受け入れておられました。そして、元気に活躍されていた時はもちろん、病んで病院に入院されても、その生き方で、自分に注がれた神様の恵みと感謝を周りの方々に表しておられました。きっと、「終活」という言葉を意識してはおられなかったでしょうが、ご自身もご家族も平安の内に最期を迎えられました。
「終活」とは、その人が何を大切に思って生きてきたかについて考えさせ、さらに、一日一日を、どのように生きていくのかを問う作業なのではないでしょうか。
皆様も、日々の歩みを導かれる神様のご配慮にお気づきになられますよう、お祈り申し上げます。
(救世軍士官〔伝道者〕)
※「朝日新聞」2019年3月23日be版
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